2015年1月31日土曜日

いちょう団地 ~ニッポンの行く末がみえる件

神奈川県最大の県営住宅である「いちょう団地」。全82棟で、境川をはさんで、大和市に34棟、横浜市に48棟ある。
高度成長にともなって「マイホームブーム」の流れにのって建築し、1973年より入居が開始された。

その団地が大変なことになっているらしいので確認しに行ってみた。

晴天の日曜日。静かなもんだ。何が大変なのか?

わっ、こりゃ大変だ。

上の写真はバス停に貼ってある乗車・降車の説明。
下はごみ収集日の説明。なんと6ヶ国語に翻訳されている。

つまり、外国人の入居がふえ、住民秩序が乱れたのである。現在2割が外国人で、なお増え続けているという。

管理事務所や自治会の苦労が偲ばれる。よくがんばっている。

横浜市のプレートもそのままでは読めないので、ふりがなをふっておく。

古い建物にもかかわらず外観はきれい。
平成18年前後に化粧直しや、エレベーター取り付けなど、大改築を行なった。

パラボラアンテナは、国際衛星用だろうか。

北側はこうなっている。

絶対にバイクの進入を許さないという意思表示。シンプルにできそう。

横浜市側にある「いちょうマート」。かなり大きい。

ライフラインはそろっているみたいだ。

活気はないが、開店している。

中華食品の店。看板が新しいので最近進出してきたと思われる。

となりの「スーパーグラッセ」は閉まっていた。

住民の足となるのは神奈中バス。

バス停留所に張ってあったビラ。老齢者のサポートは活発に行なわれているようだ。

大和市側にも「いちょうショッピングセンター」があった。規模は小さい。

ここにも「アジア食品」の店が進出していた。「つり吉ラーメン」は閉まっていた。

障害物にしかなってない。

下に貼ってある案内がみえないぞ。

隣接する広場でゲートボールを楽しんでいる。

隣接する「いちょう団地汚水処理場」。右側のパネルの字は消えてしまっている

住民の健康を担っているであろう「いちょう台クリニック」。

2014-09-26 読売新聞夕刊

■老朽化と老齢化
1970年ごろ大量に生まれた団地は、どこでも同じようなもので、建物は老朽化し、住人も老齢化している。
思い切ってエレベーターを設置したが、足腰の強さ、部屋のフロア、経済力によって、意見が分かれるし、合意してもフロアごとの負担割合など合意に至るのは容易ではなかっただろう。

いちょう団地はかなり頑張っている。

■外国人の入居とニッポンの未来
大和市は1980年代、ボートピープル(ベトナム難民)を受け入れてきた歴史がある。当初、ベトナム人が入居していたが、次第に外国人の入居が増え、いまでは住民の2割、東南アジア、中国、南米など11カ国の人々が暮らすようになった。団地内を歩いている人は、老齢者は日本人で、老齢者以外は外国人と考えればおおよそ間違いない。

人は単独でいると郷に従い、集団になると自分たちの習慣を持ち込む。それが周囲にストレスや軋轢を生む。いちょう団地は、その折り合いをつけるという困難な課題に取り組んでいる。

入居している外国人に子供が生まれれば、問題は世代をシフトしていく。
いちょう団地をみていればニッポンの未来がみえてくる・・・・かもしれない。

2015年1月27日火曜日

二条通りの溶岩焼きが昭和すぎる件

二条通り商店街にある溶岩焼きの店は昭和っぷり全開だ。

キッコーマン、アース、イカリソース・・・ひとりでに顔がほころんでしまう。

オロナミンCは「メガネが落ちるんですよ」の顔がみえるようにしてほしいな。

今はなきナショナル販売店のブランド。当時「乾電池はナショナル」ですからね。

見上げると軒の裏側にも。キンチョールのロゴは今でも続いている。「金鳥かとり」の青い看板もあったっけ。

やっぱり三ツ矢サイダーのロゴはこうでなくっちゃいけません。

ちなみに店の名前は何なのだ?

二条通りの整骨院の宣伝広告がA4の件

二条通にある整骨院の窓広告は、ワープロ印字したA4の用紙を貼り合わせている。
DIY感がはんぱでないが、これなら整骨も職人芸が期待できそうだ。




大和市役所の駐車場がヘンテコな件


大和市役所の駐車場に入ると、駐車券の発行ボタンを押して駐車券ををとらないとゲートが開かない・・・まあ、あたりまえだ。



用事をすませて駐車券を処理してもらおうとしたら、「機械に表示されているナンバーを覚えて、出口でそのナンバーを入力するように」といわれた・・・ふーん、ま、かまわないけど。20番ね。



ところが駐車場出口にくると、「本日の出庫番号は『20』です」と貼紙があった・・・意味ねーじゃん、と誰もがツッコむ瞬間だろう。

結局、ゲートも、ナンバー表示機も、貼紙もいらないのではないだろうか。

2014年11月17日月曜日

大和市と台湾の深い関係の件

泉の森の中にポツンと存在する「台湾亭」

上草柳の善徳寺(ぜんとくじ)境内にある「戦没台湾少年の慰霊碑」


この2つのオブジェをつなぐキーワードが「台湾少年工」である。



戦時中、「月光」「零戦」「雷電」「紫電改」などの戦闘機を製造する「高座海軍工廠」が座間町栗原から海老名町柏ヶ谷の一帯につくられた。

そこに当時日本の領土だった台湾から12歳から19歳の少年たち約8000人が動員された。

工業学校の卒業資格が得られること、台湾内での就業が保証されることなどの好条件により、優秀な少年たちが志願してきた。

少年工の宿舎は大和市上草柳にあった。

皇民化政策によって彼らには日本式の名前がつけられた。日本語、神社参拝など日本の風習に慣れるような訓練が行われた。

労働も過酷だったが、あどけない少年たちにとって、最もつらかったのは貧相な食事と日本の寒さであった。

夜になると「寒い!」「痛い!」「アブー!(お母さん)」の大合唱がおきる。
「痛い!」は日本で初めて「しもやけ」を経験したからである。

年長者(17~19歳)は、なだめるのに苦労したが、ときには「これくらいの辛抱ができなくて戦争に勝てるか!」と鼓舞することもあったという。

しかし彼らは秩序を乱すことなく一生懸命に働き、実力を認められていった。

「台湾少年工の日本での生活は過酷でしたが、子ども心にも『お国のため』という愛国の心に燃えていました。だから敵と戦う飛行機を作れることは、少年工 たちにとってこの上ない誇りでした。」(黄 茂己)

当時は全国的に人手が不足していたから、少年工たちは日本各地の工場へも送られた。中には戦地に出征する者もいた。

しかし、アメリカ軍の空襲が始まると、まっ先に軍事施設が狙われ、次々と幼い命が奪われていった。

1945年7月30日、高座海軍工廠の少年3人も宿舎に帰る途中で犠牲となった。

そして終戦。

少年たちは、突然「異国籍者」になってしまった。
将来を日本に託していた彼らは、卒業資格も得られぬまま、志半ばで「帰国」することになったのである。

戒厳令下の台湾では日本のことは口にできない。しかし、 帰国しても彼らは日本人のアイデンティティと誇りを失ってはいなかった。

1988年、帰国後約40年たって戒厳令が解除されると、「台湾高座会」を結成し、日本に残った人たちも「日本高座会」を結成した。

50周年歓迎大会には台湾から1400名が来日し、高齢化がすすんだ70周年歓迎大会にも250名が来日した。


そして今なお日本人との交流は続いている。

さて、冒頭の写真に戻るが、泉の森にある「台湾邸」は、50周年歓迎大会のときに、台湾高座会より大和市に寄贈されたもの。

善徳寺にある「戦没台湾少年の慰霊碑」は、犠牲となったた少年工たちの慰霊のため、彼らの教官だった早川金次氏が、1963年に私費で建立したものである。


※画像は「台湾少年工」(前衛出版社)より引用。


2014年11月14日金曜日

図書館前バス停 ~2つ目のベンチの件

図書館前バス停にはベンチが2つある。1つは正規のもの。もうひとつは、、、

渡辺製作所がおいていったもの。みんなこっちにすわる。


大和中央通 ~思わず家を買いたくなる不動産屋さんの件


メゾンギャラリーという不動産屋さん。

家を買うとソフトクリームをサービス中だそうだ。これはお得・・・と思わなければいけない。